比叡山 延暦寺(歴史上最も影響力のあった寺院)

京都の北東の比叡山にある天台宗の総本山延暦寺は京都にある寺院に中、いや日本全体でも、良くも悪くも歴史上最も有名な寺院である。その歴史上の重みで世界文化遺産にも登録されている。御朱印帳を作るに当たって、権威のある寺院のものが好ましいと考え、延暦寺を参拝することにした。延暦寺の境内は広大で半日程度では回りきれるものではないが、一番重要な根本中堂など東塔地区を見学した。

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延暦寺の地図

滋賀県大津市坂本本町4220

延暦寺は広大で建物は比叡山全体に点在しているが、延暦寺とあるのは根本中堂の場所、矢印は会館と思われる。

延暦寺へのアクセス方法

延暦寺は京都側と滋賀県側から行くことが出来る。
1.JR京都駅や三条京阪から出ている路線バスを利用するのが手軽である。
2.電車で滋賀県の坂本まで行き、坂本ケーブルで行く方法。根本中堂は滋賀県側にあり、ケーブルを頂上駅から普通に歩いて行ける。
3.八瀬比叡山口から叡山ケーブルとロープウェイに乗り継いで比叡山山頂まで行き、そこから根本中堂まで下る方法。山頂の展望を楽しむならベター。

比叡山からの眺め

比叡山からの眺め

延暦寺の境内

延暦寺は比叡山全域を境内とする寺院の総称である。比叡山の山中には約150ほどの堂塔が点在している。
延暦寺は地域別に、東塔、西塔、横川の三つに分かれている。

東塔地区

東塔は最澄が延暦寺を開いた場所であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。総本堂根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっている。

根本中堂(国宝)

延暦寺の中心的な建物で現在の総本堂。元は最澄が建てた一乗止観院であるが、何度が騒乱で焼かれている。現在の建物は織田信長の焼き討ち事件の後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。
入母屋造で中央の厨子には最澄自作と伝えられる薬師如来立像を安置されている。
本尊厨子前に最澄の時代から続く「不滅の法灯」がある。この法灯は信長の焼き討ちのときも、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して1200年間灯し続けている。

延暦寺根本中堂

延暦寺根本中堂

根本中堂の納経帳と納経印

納経印には醫王殿と書かれていた。意味は本尊が薬師如来であることから、昔は医者のことを薬師と呼んでいた。即ち、薬師如来は、身の病、心の病を癒してくれる医者の王様であり、この根本中堂はその殿堂との意味があるとのこと。

延暦寺の納経帳

延暦寺の納経帳

根本中堂納経印

根本中堂納経印

文殊楼(山門)

根本中堂の前の階段を登ったところにある。二階には文殊菩薩が安置されている。

延暦寺文殊楼

延暦寺文殊楼

大講堂

本尊は大日如来。本尊の両脇に日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。

延暦寺大講堂

延暦寺大講堂

阿弥陀堂

信徒の先祖回向の道場です。本尊は阿弥陀如来です。

延暦寺阿弥陀堂

延暦寺阿弥陀堂

阿弥陀堂の納経印

延暦寺の各所で納経印が貰える。

延暦寺阿弥陀堂の納経印

延暦寺阿弥陀堂の納経印

法華総持院東塔

多宝塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形である。下層には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1000部を安置されている。

延暦寺法華総持院東塔

延暦寺法華総持院東塔

西塔地区

西塔は本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域。第2世天台座主寂光大師円澄によって開かれた。本堂は釈迦堂(転法輪堂)。伝教大師最澄上人の御廟所である浄土院などがある。また、居士林で一般人も修行体験をすることができる。

横川地区

横川は本堂にあたる横川中堂を中心とする区域。第3世天台座主慈覚大師円仁によって開かれた。

延暦寺の歴史

延暦寺の創建と国家鎮護のお寺

平安時代の初期の延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。創建時の年号をとって延暦寺という寺号が許された。
延暦寺は平安京の鬼門にあたる北東部を守る国家鎮護のお寺として貴族や民衆から高い信頼を受けていた。
この都を守護するとの考え方は江戸にも適用され、寛永寺が建てられている。寛永寺の山号は東叡山であるが、意味はまさしく「東の比叡山」との意味である。

日本仏教の母山

延暦寺は最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である菩薩僧を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立した。その内容は天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏など仏教の総合大学のようであった。これにより、日本仏教界の著名な僧を多く輩出し、日本仏教の母山と仰がれている。

比叡山で修行した著名な僧としては以下の通りである。
良源:比叡山中興の祖。
源信:「往生要集」の著者
円珍:天台寺門宗の宗祖。
真盛:天台真盛宗の宗祖。
良忍:融通念仏宗の開祖。
一遍:時宗の開祖。
法然:日本の浄土宗の開祖。
栄西:日本の臨済宗の開祖
道元:日本の曹洞宗の開祖
親鸞:浄土真宗の開祖
日蓮:日蓮宗の開祖

比叡山延暦寺の強大化

延暦寺は信頼を受けるとともに武力を持ち始め、宗教と結びついた僧兵により年々その武力を伸ばしている。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺とともに、南都北嶺と恐れられた。
平安時代の末期、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「京都を流れる鴨川の水害、サイコロの目、強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵」の三つが思うとおりにならないと嘆かせている。
室町時代、六代将軍の足利義教が初めて延暦寺を制圧しようとして僧兵と対立している。最終的には姿勢を曲げなかった足利義教に僧侶達が絶望し、根本中堂に火を放って焼身自殺している。その時、本尊や多くの建物が焼失してしまった。その後、義教が焼失した根本中堂の再建を命じている。
義教は一時的に延暦寺の制圧に成功したが、義教が殺されると延暦寺は再び武装し強大化な独立国状態に戻っている。

織田信長による比叡山焼討ち事件

戦国時代、延暦寺は僧兵4000人を持っていた。織田信長はこの強大な武力と権力を持つた僧達の仏教政治の腐敗が戦国統一の障害になると考え、延暦寺に武装解除するよう再三迫った。延暦寺はこれを断固拒否したため、織田信長の軍勢は延暦寺を取り囲み焼き討ちした。これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって再建されている。

世界文化遺産に登録

平成6年、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。建物だけを考えると度々焼失し、現存するものは江戸時代に建てられたものであるが、延暦寺の1200年の歴史。国宝的人材育成の学問と修行の道場として評価。世界の平和や平安を祈る寺院として、歴史と伝統が世界に高い評価を受けてのことである。

延暦寺の荒行「千日回峯行」

相応和尚により開創された。その常識を離れた内容のためマスコミで取り上げられることが多い。その内容は以下の通り。
・1年目から3年目までは、1日に30キロ比叡山の山中を巡る行程を毎年100日間行う。
・4年目と5年目は、同じく30キロの行程を毎年200日行う。700日を満了すると。
・「堂入り」:9日間断食・断水・不眠・不臥で過ごす。一般人がこの様なことを行うと4,5日で死んでしまうが、鍛錬すると出来るらしい。
・6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日行う。
・7年目の前半の100日間は行程84キロにも及ぶ「京都大廻り」。比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼する。
・最後の100日間は、比叡山山中を30キロをめぐり満行となる。

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